海外通信ワールド編第9号 | 日本語教師養成講座のアークアカデミー

【第9号】中国湖北省武漢市 江漢大学 高岡 博史先生

2014/09/22

高岡 博史先生
2011年修了生
2014年10月より国内非常勤講師スタート予定

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江漢大学の正門

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教室風景

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日本文化祭

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運動会の入場行進

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年末の晩会

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三角湖の蓮

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武漢の観光名所−黄鶴楼

武漢における中国教師生活

2011年7月にアークを卒業。その直後の8月22日に胸躍らせながら成田を出発して三年、江漢大学日本語学科での勤務を終えて、この7月18日に帰国。あっという間であったが、愉しくかつ貴重な経験をさせてもらった。
新しいことに挑戦し、有意義で楽しい生活を送る、特にできる限り愉しもうという所期の目的は、ほぼ達成したのではないかと思う。
中国という、日本とは近くてこんなにも違う国で、しかもこれまでのサラリーマン生活とは違う教師と言う経験ができたこと、その中で、学生たちとの生活を愉しみ、武漢の生活を愉しむことができたのは、予想以上の成果であった。

 

1.江漢大学
中国のど真ん中、縦は北京と広州・香港、横は上海と重慶・成都、それらを結ぶ線の交点に武漢という人口1000万人の都市がある。江漢大学とは、その武漢市の予算で運営される公立の大学である。
その大学に、アークの先輩から声がかかり、二つ返事で赴任をすることに。

 

2.授業
大学の教壇に立って授業をすること自体が初めての経験だったので、最初の2週間くらいはかなり緊張したものだ。しかし、生徒たちがまじめでやさしいので、すぐに慣れてしまい、愉しい授業になった。私の最初の担当は、3年生と4年生。一応日本語が話せるようになった生徒たちが対象だったのも幸いだったのかもしれない。
授業により、事前準備が大変なものとそうでないものとがある。日本語そのものの授業よりも、日本の社会文化歴史などを教える方が事前の準備が大変だった。例えば「日本概況」などは、教科書だけではつまらないので、インターネットで情報を集めて、PPTを作成、なるべく画像を多くして視覚による理解を深めるようにした。生徒とはできる限りインターラクティブに。質疑応答とグループ討議なども。
そう言えば、『日本概況』と言われて、それは一体何を教えるのだろうと思った。突然日本の概要を教えろ、と言われても、普通の日本人は困るはずである。しかし、中国には、ちゃんとした教科書がある。日本の地理、歴史、政治、生活、習慣、芸術・芸能、スポーツ等々、よく纏めてあるのだ。これは、自分にも大変勉強になった。

 

授業時間数については、契約上、1学期つまり半年当り最大14学時/週x20週=280学時となっている。1学時つまり1コマは45分である。これを超えると超過手当てがもらえる。大体週12~14コマが普通で、少ないときは週10コマ+卒論指導というときもあった。授業は16週間行い、後は期末試験である。
朝8時20分から始まり、1、2時限が45分+10分休憩+45分、その後20分休憩で、3、4時限があり、午前中は丁度12時に終わる。いいのは、昼休みが2時間もあること。食堂で食べてもいいが、自宅に帰り、自分で作ることも十分可能だ。午後は、2時から始まり、7、8時限が終わるのは、5時半。9、10時限等夜の授業もあるが、我々は大体8時限で終わる。
結構大変なのが、期末試験問題の作成である。11週目か12週目に全科目分の試験問題をA、B2つ作って出さなければならない。どちらを実際に使うかは教務が決める。使わなかった方は落とした生徒のための追試用となる。選択問題は作るのは大変だが、採点が楽である。記述問題は作るのは簡単だが、採点が大変だ。それに、選択問題ばかりだと、場合によりたくさんの生徒が落ちてしまう危険性がある。記述問題だと救えるのだ。その按配が難しい。
一番大変だったのは卒論の指導。できる生徒は楽なのだが、できない生徒は、いつまでたっても出してこない。論文なのでオリジナリティー(創新性)が要求される。これがなかなかむずかしい。テーマ選びで間違えると、あとで大変苦労することになる。テーマは日本の高度経済成長からゴミの分別処理まで幅広い。もちろん、日本語で書くので、その直しもしてやらなければならない。中身があればこれはたいしたことではないのだが、時間はかかる。最初の年は4人、最後は2人だったが、4人は大変だった。

 

担当したのは2年生以上で、結局1年生を担当することはなかったのだが、1年生は入学後最初の3週間は、軍事訓練で、授業がない。9月と言えばまだかなり暑い。その中を運動場で、朝から晩まで軍事訓練をやるのだ。教師は軍隊からやってくる。先ずは行進の訓練。一、二、一(イー、アール、イー)、一、二、一(イー、アール、イー)と言いながら、足を前にあげて行進をするのだ。生徒たちに聞くと、やはりあれは大変だったと言う。それから授業が始まる。1年、2年は、英語や体育、それに毛沢東思想などの思想教育と、日本語学科以外の授業も多く、生徒たちは大変忙しい。それが、3年になると急に暇になり、アルバイトを始める生徒が多い。4年生の第一学期はもっと暇である。しかし、第二学期になると、卒論と同時に会社や工場での実習が始まり、その上、就職活動をしなければならなくなるので、また急に忙しくなり、学校にいることが少なくなってくる。

 

3.学生
江漢大学の日本語学科は比較的新しく、2011年9月時点では、4年生が第一期生であった。1年生から4年生まで1クラス20~25人程度、その次の新入生からは2クラスに増員され、日本語学科が増えていくかと思われたが、例の尖閣諸島問題で日中関係が悪化、応募者の減少に伴い、2クラスは2年しか続かなかった。2014年9月入学生はまた1クラスに逆戻り。

 

生徒は圧倒的に女子学生が多い。男子学生が最も多いのは2012年入学生だが、それでも、48人中12人と4分の一。最も少ない2009年入学生は22人中たった2人しかいなかった。
生徒たちは、ほとんどまじめに勉強をする。予習してくる生徒も多い。ほとんど日本語が喋れなかった生徒が、三年経つとかなりうまくなる。ただ、クラスに数人は、やはりあまりできない生徒も出てくるのは仕方がない。

 

日本へ留学する生徒も極めて多い。第一期生は27人中17人が何らかの形で留学している。留学の種類は4種類。第一は、大分大学との交換留学制度。これは年間2~3人程度で、他学部の生徒も応募する。一年間大分大学へ行くので、卒業が一年遅れることになるが、費用も安く場合によっては奨学金ももらえる。第二は、“3+1”と言われる制度で、三年江漢大学で過ごした後、大分大学で最後の一年間を過ごす。この一年間は、江漢大学の単位として認められるので、卒業が遅れない。そのまま大分大学やその他の日本の大学の大学院に進学する場合が多い。この制度で毎年5~6人が大分大学へ行く。第三は、江漢大学を普通に卒業して、日本の大学院に進学するケースで、この場合、日本の日本語学校に入ってから日本で受験するのが最も多いが、日本の大学の研究生となって大学院入学を目指す場合もある。第四は、2011年入学生から適用された新しい制度であり、“1.5+1+1.5”という。1年半江漢大学で勉強した後、大分県立芸術文化短期大学に1年間留学し帰って来て1年半で卒業する。これも卒業が遅れることはない。毎年5~6人。

 

就職は、やはり日系企業が多い。武漢での就職は、自動車部品会社かIT関連である。武漢には、東風汽車の本社があり、東風日産、東風本田という合弁会社がある。このため、日本の自動車部品会社が数多く進出している。ITについては、日系企業とは限らないが、日本の企業からのソフトのアウトソーシングである。ITの会社に就職をして、日本に派遣されている卒業生もいる。武漢以外では、広州や上海に就職することが多い。沿海部の方が給料が高いということもある。親戚や兄弟をたよって行くケースが多い。

 

第一期生から第三期生までが既に卒業しているが、東京にすでに12人いる。先日東京で同窓会を開催したが、みんな元気だった。

話は変わるが、中国は一人っ子政策なので、兄弟がいないだろうと思っていたが、そんなことはない。生徒の約半分は都会から残り半分は農村から来ているが、一人っ子は都会の子だけ。農村から来ている生徒はほとんど兄弟がいる。4人兄弟などと言うのも珍しくない。中国の人口は、日本と違って当面減少することはないだろう。

 

生徒たちとの授業以外の付き合いについては、食事をしたり、旅行に行ったりと、愉しく過ごすことが出来た。最初は、右も左もわからなかったので、武漢市内を案内してくれた。その後、日帰りのピクニックや、泊りがけで、黄山などに旅行に行ったりもした。1クラス20数人と人数が少なかったので、一人ひとりと仲良くなることができたからだと思う。

 

4.中国人の先生と教務
中国人の先生方も良い方が多かったように思う。赴任したときは中国人の先生が6人(内男性2人)、日本人の女の先生が1人、多少出入りがあったが、帰国するときには、中国人の先生は7人(内男性3人)になっていた。

外籍教師については、各学科毎に担当の中国人の先生が指定されており、コティーチャー(Co-teacher)と言っていたが、日本語学科のコティーチャーは20代の若い女性の先生。この先生、こちらの立場をよく理解してくれ、大変有能であった。困ったことは何でも相談でき、解決してくれるので、大助かりである。

しかし、中国のやり方は、計画性がない。直前にならないと決まらない。決まったことが突然変更になる。しかも、一方的な上意下達だ。理由なく命令されることが多い。決められたことには従わないといけないが、理由を質問してはいけない。教務が毎回様式を変えるが、これがまったく意味がない。余計に複雑になっただけと言うのが多い。中国人の先生方もそういうのだが、逆らえないのだ。
一番困るのは、直前まで期末試験の予定日が決まらないことだ。これが決まらないと帰国する飛行機の予約が出来ない。一ヶ月前だと安く手に入るので、見切り発車で少し余裕を持って飛行機の予約をすることになる。

 

5.学校行事
学校行事として、入学式や卒業式はあるのだろうが、われわれはそういうのには出席しない。必ず出席させられるのは、運動会の入場行進だ。その年によって違うが、いろいろな格好で出場する。最初の年は民族衣装でというので、着物を着て出た。次の年は、太極拳を大学トップの観覧席の前でやると言うので、太極拳の衣装を着て簡単な太極拳をした。最後の年は、中国の武術をやるというので練習をしたのだが、難しすぎてとてもできないということになり、これはやらず、おそろいの運動服で行進をして旗を振るだけで終わった。

年末には、晩会というのをやる。これは大学として行うものと、外国語学院として行うものとがある。ステージで、歌や踊り、詩の朗読や京劇や寸劇などを行うもの。われわれ外教も出し物を出す。歌のうまい人や楽器のできる人が出るのが普通だが、最後の年はみんなで“Silent night, holy night …”を英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、日本語、中国語で歌った。

最初の年は、4大学が合併して江漢大学が今の地に移ってきて10周年だということで、10月16日に、その記念行事が結構大規模に行われた。記念式典と展示、それから文芸晩会である。その年は丁度辛亥革命100周年とも重なったため、武漢市全体もお祭りムードであったが、大学内にも辛亥革命100周年を祝う看板が掲げられ、全体にお祭り気分であった。それが翌年は、尖閣諸島問題が発生し、各地で反日デモが行われ、当大学も自粛、一気に険悪なムードになるのである。その翌年は、普通の状態に戻るのだが。

 

6.大学の組織
江漢大学の学生数は1万8000人弱。教師の数は約1000人。理工系、経済、商学、法学、医学、人文系、芸術、外国語学部等、ほとんどの学部がある。中で面白いのはゴルフ学部があることである。校内にゴルフの打ちっぱなしがある。医学部があるので、校内には病院もある。

大学で一番偉いのは大学の共産党書記である。大学の中枢として、行政楼というビルがあるが、この入口の左側には「江漢大学」の看板がかかっているが、右側には「中国共産党江漢大学委員会」の看板がかかっている。次ぎに偉いのが校長である。
各学部にも共産党書記が居り、外国語学院にも書記と院長(学部長)がいる。つい先日まで知らなかったのだが、日本語学科にも共産党書記がいた。実は日本語学科の主任よりも組織的には偉いのだそうだ。

 

7.日常生活
宿舎は2DK、エアコン付き、冷蔵庫、炊飯器、電子レンジ、洗濯機等完備。ほぼ快適な生活を送ることができた。ガスはプロパンで無料。飲料水は10日に一度くらいの割合で、運び込んでもらう。1タンク、最初は7元だったが帰国する頃には9元に値上がり。ときどき断水や停電もあったが、それほど困ることはなかった。

部屋はベッドルームと書斎とリビングルーム。ベッドはクイーンサイズの大きいベッドで快適ではあったが、備え付けの布団は冬になると何となく寒いので、羽毛布団を買った。書斎には、机、本棚、プリンターがあり、仕事の準備は快適に出来る。インターネットももちろん無料。イーサーネットの線をつなぐと不便なので、Wi-Fiの端末を日本から持参して、無線でパソコンやiPhoneと繋がるようにした。このiPhoneは日本との無料電話で大活躍。エアコンはリビングルームに大きいのが一つ。冬になると書斎で仕事をしていると寒いので、ついついリビングルームにパソコンを持ち込み、食卓で仕事をすることに。

食事は、昼食は教職員用の食堂でウィークデイは無料で食べられる。夕食はほぼ自炊。教職員食堂はあまりおいしくないので、後半は週に2回程度、それ以外は自宅で麺やスパゲッティー、炒飯等を。
自炊と言うのは、生まれて初めてであったが、意外とやれば出来るものである。人様に出せるようなものは出来ないが、自分が食べるくらいなら、野菜炒め、煮物、シチュー、カレーライス、等々。結構おいしく出来る。日本からは、だしの素、鰹節、味噌等を持参。キッコーマンの醤油は輸入食料品店で手に入る。

食事の材料は、3箇所。野菜は圧倒的に“菜市場”という、庶民の“市場”が安くて新鮮。トマト、キュウリ、青菜、シイタケ等一杯買っても、50元(800円)も行かない。種類も日本より豊富だ。肉類はこの市場でも売ってはいるのだが、買う気がしない。武商量販という地元のスーパーで買う。日本のスーパーをよく勉強しているのか、パックに入れて売っている。陳列棚にあるのも笑顔で量り売りしてくれる。豆腐や卵、その他の日用品は、これも地元のスーパー中百百貨で買う。一週間に一度位の割合で、この箇所を自転車で廻るのである。

丁度赴任したときに、近くに“万達(ワンダー)”という近代的なショッピングモールができた。そこには、百貨店、専門店、ウォルマート、レストラン等があり、人々で賑わう。しかし、百貨店や専門店は品揃えが少ない上に高い。日本より高いのだ。ウォルマートでもときどき買物をするが、野菜などもあまり新鮮でないので、いまひとつ。結局ここを利用するのは、何かの機会に、ちょっと洒落たレストランで食事をするとき位である。

 

レストランも、一番安くておいしいのは、地元密着型。大学の2号門の前の泰合百花の団地の中にある餃子屋は餃子の他に東北料理を出すので、味が日本人に合う。3~4人でいくら食べても50元(800円)位だ。その向かい側の蘭州ラーメンの牛肉ラーメンもおいしい。一杯9元(140円)。武商量販のある湘隆広場にあるお粥屋さんのお粥も安くておいしい。と言う具合で、安くておいしい店が結構あるので、生徒たちや近くの学校に勤める日本人の先生などと食事をするときは、こういう店を使う。

 

以上、三年間の中国武漢での教師生活を振り返ってみた。苦労も少しはあったが、おおむね大変愉しく過ごすことができたのは、幸せであった。