No.115 スマホの功罪
2019/12/04
テレビをつけながら仕事をしていたときのこと。巷の話題で、「若い部下がメモを取ろうとしない」と、会社員たちが嘆いているという話を取り上げていた。仕事のノウハウや連絡事項など、目の前の部下や後輩のために話しても、それをメモする気配がない、果たして自分の「思い」は伝わっているのか、と妻たちに愚痴をこぼしているというのである。自分の話はそんなに価値のないことなのかと自信喪失になる人もいるというから、それなりに深刻だ。
一方、若者たちの言い分としては、「特にメモを取らなくても覚えられる」「なぜ、わざわざそこでメモしなくてはいけないのか」「メモを取る習慣がない」ということらしく、街頭でのインタビューにも、実に明るく、あっけらかんと答えているのが印象的だった。どちらが一方的に悪いという話でもない。それでトラブルがなければ没問題である。だが、おそらく社会のさまざまな場面で「だから、言ったじゃないか!」という問題が起きているのだろう。
今どきの上司は、あまり部下を叱責したりしないのではないか。いや、できないらしい。叱られることで、すぐに心が折れたり、逆ギレしたり、ともするとすぐ会社を辞めてしまう若者たち。たとえミスがあってもやさしく注意、または上司自ら秘密裡に対処してしまう…ということで「OK」とする。ゆえに、一方的なストレスを生んでいるということなのか。
そんなことを考えながら、上司の嘆きに感情移入している自分がいた。わかるわかる、その気持ち。日本語の授業で、こちらが熱意をもって話しているとき、学生が理解しやすいようにと板書しても、ノートを取る学生が少ないと、報われなさにテンションが下がる。自分としては大切なことを書いているつもりなのだが、ペンを手にする気配もない。もちろん、「そんなこと今さら書かなくてもわかっている」ということならヨシとするが、どうもそうとは思えない学生に限って…なのだから困るのだ。ペンではなく、スマホを手に「何か」をする学生を前に、静かにため息をつくことにも慣れてしまった。いや、慣れてはいけないのだろうが。
ところで、板書と言えば、日本語教師にとって、というより私にとって困った事態も起きている。もともと達筆とはほど遠い私の板書は、自分で見直してみても決して美しいとは言えず「うーむ」と思うことが多々ある。ある日「はい、これちゃんと書いておいてね」と、学生に促したときのこと。一人の学生がさっと手にしたのは、ペンではなく、スマホ。そして、カメラでカシャっと板書をそのまま撮っていた。私の文字が、そのまま画面に収まった…はず。今や生活に欠かせないのは言うまでもないスマホだが、同時に、厄介な代物にもなっている。