No.105 残念な「置き土産」
2019/07/05
その日の授業は「活動」であった。それぞれ自国の昔話を紹介するということで、各自「紙芝居」を作るという作業に取り組んでいた。果たして、どんな作品に仕上げていくのかと見ていると、絵が得意な学生も、そうではない学生も、予想以上に真剣に取り組んでいる。おしゃべりも聞こえず黙々と作業は進む。発表は翌日。学生によって進み具合はまちまちだが、とりあえずは順調と言っていいだろう。授業の最後に全員の成果物を回収して、その日は終わりとした。
さて、学生たちが帰ったあと、ふと教室を見渡すと、ある机に汚れが。「もしや、紙が薄くて、マーカーのインクが机についたのか」と、恐る恐る近づいてみると、それは机一面に残された消しゴムのカスであった。消しゴムのカスが残っているなど珍しいことではない。「帰るときは、椅子をしっかり戻して、ゴミは捨てる」というルールも、学生によっては右から左に流しているのかもしれない。それにしても、その時ほど大量の「置き土産」を見たことはなく、一瞬言葉を失った。そして、さっきまでその机を使っていた二人の学生の顔が浮かんだ。授業が終わった安堵もそこそこに、「置き土産」を片付けつつ、思わず深いため息が出た。二人のうち、どちらかにでも「このゴミを捨てて帰る」という選択はなかったのだろうか。思い返すも残念である。
文化や習慣については、単純に「〇か×か」で判断できないことはわかっている。ゆえに、ことさらニッポンを肯定するつもりはないが、一つ素直に誇れるものがあるとしたら「学校の掃除教育」なのではないかと思う。ごく当たり前だと思っていたこの教育が、世界では珍しいと知ったのは、わりと最近のことだ。当然ながら、世界にはそれを生業としている人たちもおり、全ての国で実施すべきだとは言わない。ただ、子どものときから習慣づけることで、少なくとも「自分たちが使った物や、使った場所はきれいに戻す」という意識は生まれたと思う。海外に不動産を持つ人からこんな話を聞いた。「日本人は部屋をきれいに使って、きれいな状態にして出る。だから、絶対にまた日本人に貸したい」。これも、教育の延長と言えるかもしれない。
その一方で、先日はこんなこともあった。帰省のために新幹線に乗ったときのこと。通路を挟んで斜め前の席にいたサラリーマン風の男性が、途中駅で降りた。と、足元にはお弁当の容器らしき「置き土産」がゴロン。東京駅を出る前に車内清掃が行われていたので、他の人のゴミではないはずだ。しかも、つい捨て忘れたとは思えないような存在感で、明らかに「置いて行った」と思われる。立つ鳥跡を濁さず。ふと浮かんだことわざに、すべて集約されている気がした。「〇〇忘れ」が多くなっている今日この頃。心して、跡を濁さずに生きていきたいものだ。