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公立高校で日本語を教えるということ(前編)

2020/10/12

日本にも日本語教育を必要としている子どもたちがいることをご存じでしょうか。日本に住んでいながらも、日本語が壁となって悩んでいる子供たちは、たくさんいます。都内の公立高校で、外国にルーツを持つ子どもたちに日本語を教えている坂本先生にお話を伺いました。坂本先生が日本語教師になったきっかけから、現在のお仕事の様子までを前後編に分けてお送りします。

 

坂本昌代_都立高校の教え子一号
都立高校の教え子一号 (後列左が坂本先生)

1.私が日本語教師になったきっかけ

皆さんは養成講座を修了した後、どこで、だれに日本語を教える姿を思い描いているでしょうか。私は大学卒業後、学んだ中国語を活かして航空会社やメーカーで働いていたのですが、ある時ふと中国語文化圏から離れてみたくなりました。かといって、日本にずっと住む自分も想像できなかった私は、日本語教師の資格を取れば「日本人」であることを強みにどんな国でも就労ビザを取得して生活ができるのではと考え、当時働いていた香港から帰国、2003年からアークアカデミーの養成講座に通い始めました。派遣社員として働きながら勉強した結果、翌年にはJICAの日系社会青年ボランティア(※1)の候補生となり、語学や現地事情、年少者日本語教育など2ヶ月半の研修を受けた後、チリ共和国へ日系日本語学校教師として派遣されました。

 

 

2.JICAの日系社会生年ボランティア チリで過ごした2年間

チリでの2年間はあっという間でした。私が派遣されたのは、これから日本語教室を開こうとしている設立されたばかりの日系人会でした。スタッフの方と教室の場所探しから、生徒募集、そもそも授業料は一体いくらが妥当なのか?!など、本当にゼロからのスタートでした。勿論、スタッフと衝突することも多々ありましたが、2年間の活動を終えるころには、日本語だけではなく、書道や料理などの文化教室や、地元の学校への出張授業など、私なりに満足のいく結果を残して帰国することが出来ました。

 

3.外国ルーツの子どもたち

帰国後は縁あって東京で生活することになりました。以前のような日中ビジネスの仕事に戻るという選択肢もありましたが、折角なので「職業は日本語教師です」と胸を張って言えるまで続けてみようと思いました。養成講座を終えただけでチリへ赴任し、現地では一人で教えていたため、技量の不足を痛感していたからです。また、日本語教師なら子育てしながら自分のペースで長く働けるのではという思いもありました。そこで、アークの非常勤講師として採用していただき、日本で“プロの日本語教師”としての一歩を踏み出すことになりました。

ただ、一つ気になっていたことがありました。それは、JICAボランテイアの派遣前研修で出会った“外国ルーツの子ども”たちです。日本語学校で成人の学習者へ日本語を教えるのも勿論やり甲斐があります。でも、自分自身の海外経験、語学力、そして教員免許を活かして公立学校で彼らに日本語を教えるのは自分の天職なのではという思いがありました。

思ったのはいいのですが、問題は正規の採用ルートがどこにもないことです。小中学校には日本語学級がありますが、まずは教員採用試験を受けなければならず、採用されたとしても「日本語学級」の先生になれるとは限りません。高校の採用試験は難関で、そもそも「日本語」を教える公立高校を、東京では見つけることができませんでした。何か方法はないかと、外国人支援の勉強会を探しては片っ端から参加するうちに、定時制高校に入ってきた外国ルーツの生徒へ国語を教えるという非常勤講師の仕事を見つけました。生徒はパキスタンとフィリピン出身の女子生徒です。この2人が私の最初の生徒となりました。

 

4.都立高校での国語?日本語?指導

坂本昌代_都立高校の教え子一号
学習支援の様子

 

いよいよ定時制高校での授業が始まりました。2人とも来日して1、2年とのことで、日常会話はさほど問題ないのですが、漢字は小学校1、2年生程度で、とうてい国語の教科書を読めるレベルにはありませんでした。一体どうやって“国語”を教えたらいいのか?そもそも“国語”を教えなければならないのか??試行錯誤が始まりました。幸い、生徒の日本語の実態にあわせて指導をしてよいとのことで、読解や漢字、文法など色々な教科書から高校生にあう題材を探し、日本で生活していく上で身に付けるべき知識は何かなど考えながら教材を作り、授業で試してみました(続きは後編へ)。

 

 

公立高校 国語科 講師 坂本 昌代

 

 

※1 現在は「JICA海外協力隊」という名称に統一されていますが、私が派遣された当時は、開発途上国へ派遣される「海外協力隊」と、中南米の日系社会に派遣される「日系社会ボランティア」に分かれていました。