No.50 伝えたい事
2017/04/11
今年も3月11日が、また巡ってきた。東日本大震災、運命の14時46分。数日前から、その時をどこでどう迎えようかと考えていた。それは、3年前の反省からだ。大震災からわずか3年のその日、私は「14時46分」を忘れていた。もちろん、3月11日が近づき、テレビや新聞でさまざまな特集が組まれ、被災地やそこで暮らす人々の「その後」を目にしていた。当日の朝も「あれから3年経ったんだな」と複雑な思いで迎えたというのに…。その瞬間、自分の頭を何もよぎらなかったことがショックで、しばし自己嫌悪に陥っていた。
よく耳にする「まだ復興は遠いのに、被災地への思いが年々薄れてきている」という批判。それが、そのまま自分にも当てはまっているような気がした。日々の生活に追われ、じっくりと考える余裕がなかったという理由もある。しかし、3年前の猛省から、せめてこの日だけでも、被災地の人々や復興に思いを寄せながら、自分自身に様々なことを問いかける日にしたいと思うようになった。
ところで、いま学校で日本語を学んでいる留学生たちは、東日本大震災を知らない。もちろん、あの日起こったことはニュースやネットで目にしただろう。地震の規模の大きさと甚大な被害は世界中を駆け巡ったはずだ。そういった「知識」はあるかもしれないが、「備える」という意識があまり感じられないのである。授業で災害について話題になったとき、「水が特に大切。万一のために、必ず水を何本か買っておいてね」と言っても、ピンときていない学生がいる。「えっ? 水はコンビニで売ってますよ」と笑顔で返されたりする。
あらゆるもので満たされたこの東京で、断水や節電が続き、水、米、牛乳、パンがスーパーやコンビニから消え、食料を求めてレジに長い行列ができる殺伐とした光景など想像できないのだろう。無理もないことだが、日本で暮らす以上「備え」は不可欠だ。世界には「万一を想定すること自体、不吉な考えだ」と忌み嫌う国もある。怖がらせる必要などはない。だが、私たち日本人が「備えあれば憂いなし」という思いの下、日々過ごしていることは伝えたい。
今年のその時。結局、私は最寄り駅にあるカフェで迎えた。落ち着いたカウンター席で、読みかけの本を開いたまま、1分間目を閉じる。未だ避難生活を余儀なくされている人々が12万人を超え、実に2000人以上が今も行方不明であるという事実を噛みしめた。あれから、もう6年。まだ6年。微力ながら、今できること、考えるべきことを私なりに続けていきたいと改めて思った。